2012年9月12日水曜日

覚悟。


 日常、輸入食材が多いのは、特段、西洋かぶれだからではない。現状を見比べて「よりまし」であるものを選抜した結果だ。

 元々、和食と呼ばれる食品の原材料である、大豆や小麦粉はほとんどが輸入に頼っている。輸出国が生産する穀類の多くは、遺伝子組換えによる品種で、残留農薬の基準値も、自国消費のそれよりも緩くなっている。極論すれば、和食の名の下に、持ち込まれた毒を食んでいるといってもいい。

 残留農薬、遺伝子組換え、内分泌撹乱物質、底質汚染。口に入るものに対してつけるケチなど、言いだしたらきりがない。ちょっと前ならみんなして、保存性の高い食品や、廉価な輸入食材を蛇蝎の如く嫌っていた。それがどうだ。

 リスクの程度よりも、「危険性の流行」に眼を奪われて、元の問題は置いてけぼりだ。

 騒ぐ問題の対象はコロコロ変わるが、騒ぐ連中はいつも同じ顔ぶれだ。 要は輸入された毒を食うか、汚染された飯を貪るか、それだけの違いだ。

 大事なのは覚悟。守るべきもののために何を採り、何を捨てるかという覚悟。なにもかも選ばないというのなら、その覚悟も必要。たえず変化を続けて、生き残らなければ、何も遺せない。

2012年8月29日水曜日

無様。

 また彼は逃げ出した。立場と都合が悪くなるその度に、「お世話になりました」「ありがとうございました」と字面だけの感謝と惜別を述べ、そこからいなくなった体を装う。それをまた繰り返したのだ。彼にはきっちりと河岸を変える度胸も潔さもない。僅かに水面下に潜み、水面の塵が流れ去るのを受動的に待っている。陸に上がれば水底は丸見えだというのにもかかわらずだ。

 トカゲの尻尾でさえ、そう何度も自切できるものではない。しかし彼は、逃げ出した後も、新たな居場所で新たな物語の主人公を演じ始めるたびに、自分が切り捨てた、自分そのものは何度でも再生できると信じきっている。

 自分の手で傷つけ汚してきた時間を、そうそう都合良く切り捨てられるはずがない。過去は切り捨てるのではなく、乗り越えて、より逞しくなった(または傷つき衰えた)両腕で丸ごと抱えるか、あるいは地に降ろして死ぬまで牽き続けていくものだ。捨て置いた過去は、誰かに都合良く改竄されて見せ物にされるのが関の山だ。

 それでも彼は逃げ続ける。これで何度目の敵前逃亡だろうか。

 彼にしてみれば、逃げる河岸があるだけ、まだ余裕があるのだろう。青いカバーの手帳を振りかざし、公に扶助されることが当然だと主張しながら、自分自身は道楽に勤しむゆとりが、彼にはまだあるようだ。そして、口先や字面だけでのやりとりに「人生を賭け」続けている。おめでたいことこの上ない。

 まるで、自切したトカゲの尻尾がのたうち回るように、日々巷に自分の恥を撒き散らし続けている。ただただ無様だ。

 きっと彼はこの先も、きっと土に還るまでこのまま、ことあるごとに逃げ出しては、難民の如き身の上を演じ続けていくのだろう。彼と決別して交わりを絶った今となっては、何かをしてやることも出来ないし、そのつもりもない。海の向こうの出来事のように、遠い眼で眺めては、せいぜい達者で暮らせ、としか言えない。いや、言いたくもない。野垂れて果てても、憐れむこともしないだろう。




 ここで自分がなすべきは、この無様を前にして、かくも惨めには生きるまいと、その思いを新たにすること。明日に自分が、その道を追う危うさを残している限りは、この醜態を、しっかりと瞼に焼き付けておくこと。それしかない。

2012年8月23日木曜日

断片

力なく地を這う蝉を見ていたら、もう、何もかもが嫌になってきた。

2012年8月22日水曜日

野辺送り

 まだ微かに生気のあるその人に、
「また来ますね」
と言った、僅か半日ほどで、その人は召されていった。


 遺された方とは別のところで、言い知れぬ悲しみと、やりきれなさが込み上げる。時間が経つほど、やりきれなさばかりが増幅されて、あらゆる罪悪の根源が、自分にあるかのような感情に襲われる。

 違うちがう、そうではない。今日はお弔いに来たのだ。

 棺を乗せた台車に従い、炉へと向かう。いずれ自分も送られるときに、そこには誰が側にいてくれるのだろうかと考えるが、誰の顔も浮かんでこない。

 今は、この野辺送りに専心すべきであろうものを。余計なことばかり考えて。

2012年5月4日金曜日

関わらない


自己顕示欲の強弱なんて、今更大した問題ではない。自分勝手の程度なら誰彼問わず、さほど変わりはないものだ。不愉快になるのもお互い様、そんなことはわかっている。

ひとえに、ダシにされたのが腹立たしいのだ。「悪いようにはしない」と言われて「いいようにされた」自分が恥ずかしくて悔しくて。ユーティリティ性が高いとか、マルチパーパスだとか、何でも屋だとか、おだてられて頭に乗って。結局は「都合のいい」者として、いいように使われていただけ。

わが事ながら実にくだらない。馬鹿馬鹿しい。お人好しにもほどがある。

ダシにした者達に怒りを向けても、彼等の性根は改まらないだろう。人生の折り返し点を回った者達に、あるべき論を説こうとするだけ徒労に終わるだけ。三つ子の魂何とやらだ。幸いにして法廷闘争に持ち込むレベルの実害も無い。自分がこれ以上関わりを持たなければ良いだけのことだ。

関わらない。結論は簡単だった。

2012年4月24日火曜日

雑記

しゃらくさい。

寝ても覚めても疼痛の中。柿ピーとラムネ菓子と錠剤をボリボリ齧りながら。

どうでもいいわいな。

2012年3月28日水曜日

日暮れて道遠し

日暮れて道遠し、故に倒行してこれを逆施するのみ。

伍子胥の言葉。「死屍に鞭打つ」も彼だった。最期は主に誅殺されたんだっけか。
似たようなものだ。梯子を外され、主に見殺しにされる。

打倒すべき敵が増えた。最早時間も体力も全然足りない。

2012年3月22日木曜日

ビジネス講座抄

 しゃらくさいとは思うが、プロトコルを遵守するのも処世術。 自分の身の程を知っていれば、図々しい物言いなどできる訳がない。 


 あと、営業用とプライベートでアカウントは分けておかないと。 それらが混在している発言の主に限って、発言も行動も無責任なのだそうだ。 つまり公私混同はダメと。当然だ。 


 また、SNSは媒体を限定しなさいとの助言も頂く。ちょうどmixiも退会したかったところだ。 本当に必要なコネクションは、SNSでは手に入らない。 足で稼いで、汗をかいてなんぼ。クリックひとつで作る人脈は、またクリックひとつで失ってしまうもの。


 確かに、一緒に泣き笑いをした人達だけと長く付き合っている。打算が見え隠れする人付き合いはくたびれるだけで、長続きしない。いいように使われ、アテにされるだけなら御免蒙る。金蔓扱いは迷惑極まりない。






 仕事と治療にもっと専念したい。もう少しいろいろ整理しないと。

2012年3月11日日曜日

あの日のこと

 思えば、昨年の今日もくさくさしながら仕事をしていた。こんな世界はブッ壊れてしまえばいいと半ば本気で考えていた。ふて腐れてキーボードを叩いていた時、勤務先の免震構造のビルは大きく揺れ、積み重ねた書類は雪崩のように勢いよく崩れ、ディスプレイもオフィスの照明も真っ暗になった。リアルに世界が壊れた瞬間だった。

 担当者の誘導に従い退館すると、街中の信号や案内表示は消え、バスロータリーは車がお互い譲り合いつつ行き来していた。ベンチは高齢者や体調を崩した人のために空けられ、余震に脅えながら各々が精一杯に秩序の維持に務めていた。職場のヘルメットを被って退館していた自分は警察官が来るまで、必死に交通整理をしていた。

 誰かの携帯電話のワンセグTVで大津波警報を知った。東北の親戚達の無事を案じつつも、妻子や両親の安否が判らず、不安から何度も何度もメールを送信していた。とても冷静ではいられなかった。約2時間後、妻と母から子供達を含めて無事だと知らされた時、やっと自分の携帯電話の充電池を他人に貸す余裕が生まれた。

 電車は止まりバスは去り、タクシーなんてどこにもいない。自分の職場は発災後の対応の為に散開することが決まった。2時間歩いて帰宅するつもりでいたが、車通勤の同僚が、わざわざ実家経由で自宅近くまで送ってくれた。その頃、叔父は既に東北に車を飛ばし、共に阪神大震災の復興支援をした友人は、直ちに支援物資の収集を始めていたという。

 自分の周辺でも幾人か亡くなり、未だに行方が知れない人もいる。被災地に派遣された同僚や後輩から現地の話を聞き、自分も津波の爪痕を見てきた。困ったことに、向こう見ずな性格は全く治らないが、もう世界がブッ壊れてしまえ、とは思わなくなった。

 昼間の職業は職業として、自分はこれからもシニカルで、またラジカルであり続けたい。何も言わずに去っていった人達が飲み込んだままの、アイロニーに思いを馳せながら、やりとりを繰り返す様々な言葉の奥に潜んだ繊細なところを、彼らの分も楽しみながら生きていこうと思う。それくらいしか出来ないから。

 去っていったすべての人々には、ごめんなさい、さようなら、ありがとう。そして、今も苦しみの中にあるすべての人々と共に、未だに踏ん反り返ったままの連中へ、振り向き様のアカンベーを、いつまでもかまし続けてやろう、という決意をもって、一年目の締め括りにしたい。明日もまた毒づくぞ。まだ生きているんだから。

2012年1月31日火曜日

部屋と文章と頭の中

言いたいことは山ほどあるが、もう少しまとめてからにしよう。
せっかくだから。

2012年1月1日日曜日

日曜日の朝

大掃除はする気にすらならず。

通り一遍の歳末の支度をして。
恒例というよりも惰性で年越し蕎麦を食べに行き。
ぬらりと暦が変わった。

日曜日の朝、
娘達に起こされ、お節料理を摘み、
お茶を濁し。

娘達に年賀状を書けと尻を叩かれ、
渋々郵便局に行く。

初詣にも行かず、年始回りもせず。
四人だけの日曜日。




事実だけしか書いていないのに、どうにも嘘っぽいのはどうしてだろうか。