2012年8月29日水曜日

無様。

 また彼は逃げ出した。立場と都合が悪くなるその度に、「お世話になりました」「ありがとうございました」と字面だけの感謝と惜別を述べ、そこからいなくなった体を装う。それをまた繰り返したのだ。彼にはきっちりと河岸を変える度胸も潔さもない。僅かに水面下に潜み、水面の塵が流れ去るのを受動的に待っている。陸に上がれば水底は丸見えだというのにもかかわらずだ。

 トカゲの尻尾でさえ、そう何度も自切できるものではない。しかし彼は、逃げ出した後も、新たな居場所で新たな物語の主人公を演じ始めるたびに、自分が切り捨てた、自分そのものは何度でも再生できると信じきっている。

 自分の手で傷つけ汚してきた時間を、そうそう都合良く切り捨てられるはずがない。過去は切り捨てるのではなく、乗り越えて、より逞しくなった(または傷つき衰えた)両腕で丸ごと抱えるか、あるいは地に降ろして死ぬまで牽き続けていくものだ。捨て置いた過去は、誰かに都合良く改竄されて見せ物にされるのが関の山だ。

 それでも彼は逃げ続ける。これで何度目の敵前逃亡だろうか。

 彼にしてみれば、逃げる河岸があるだけ、まだ余裕があるのだろう。青いカバーの手帳を振りかざし、公に扶助されることが当然だと主張しながら、自分自身は道楽に勤しむゆとりが、彼にはまだあるようだ。そして、口先や字面だけでのやりとりに「人生を賭け」続けている。おめでたいことこの上ない。

 まるで、自切したトカゲの尻尾がのたうち回るように、日々巷に自分の恥を撒き散らし続けている。ただただ無様だ。

 きっと彼はこの先も、きっと土に還るまでこのまま、ことあるごとに逃げ出しては、難民の如き身の上を演じ続けていくのだろう。彼と決別して交わりを絶った今となっては、何かをしてやることも出来ないし、そのつもりもない。海の向こうの出来事のように、遠い眼で眺めては、せいぜい達者で暮らせ、としか言えない。いや、言いたくもない。野垂れて果てても、憐れむこともしないだろう。




 ここで自分がなすべきは、この無様を前にして、かくも惨めには生きるまいと、その思いを新たにすること。明日に自分が、その道を追う危うさを残している限りは、この醜態を、しっかりと瞼に焼き付けておくこと。それしかない。

2012年8月23日木曜日

断片

力なく地を這う蝉を見ていたら、もう、何もかもが嫌になってきた。

2012年8月22日水曜日

野辺送り

 まだ微かに生気のあるその人に、
「また来ますね」
と言った、僅か半日ほどで、その人は召されていった。


 遺された方とは別のところで、言い知れぬ悲しみと、やりきれなさが込み上げる。時間が経つほど、やりきれなさばかりが増幅されて、あらゆる罪悪の根源が、自分にあるかのような感情に襲われる。

 違うちがう、そうではない。今日はお弔いに来たのだ。

 棺を乗せた台車に従い、炉へと向かう。いずれ自分も送られるときに、そこには誰が側にいてくれるのだろうかと考えるが、誰の顔も浮かんでこない。

 今は、この野辺送りに専心すべきであろうものを。余計なことばかり考えて。